どんなノートをつかうべき?

僕は無地ノート一択だと思う。

ノートなら,

ルーズリーフなら,

こんなの。 理由は,

理由1.罫線が邪魔
罫線が思考を縛るから。罫線があると,対象(文字,図,数式)を書くとき必ず罫線の存在を意識することになる。「罫線に沿って書こう」「罫線に合わせて図にすこし上に/下にずらそう」「下に行を半行ほど少しずらしたいけど罫線と被って気持ち悪いから一行あけてしまおう」「矢印書きたいけど罫線と被って気持ち悪い,罫線と重なるように書こう」「円を書くとき罫線邪魔で気が散る」「分数はどう書く?一行に詰めるか?二行に分けるか?」「\(\displaystyle \int\)は?\(\displaystyle \sum\)は?これも一行に詰めるには狭いな,一行おきに書くか?」みたいな。これがウザい。なんで罫線ごときにいちいち自分の思考を指図・邪魔されなくちゃならんのか。こんなどーでもいいことに脳のメモリが(ほんの僅かだったとしても)消費されるのはほんとバカらしい。これらのウザさは無地ノートを使うことですべて解決。自分の思うがままに自由に書けるわけだから。

まあ,罫線のメリット?を強いて挙げるとすれば
① 文章がまっすぐきれいに書ける
② 円はともかく平行線(を用いた図)は綺麗にかける
という点かな?

でもこれらは僕はメリットとは全く思わない。むしろ,デメリットでもあると思う。なぜなら,

① 文章が少しぶれたからといって情報としての内容・質に変化はない。行の角度が1度や2度傾いたからといって1次方程式が2次方程式になることはないし,分かりづらくなることもない。各行同士が平行に並んでキレイ!と喜ぶのは自己満足に過ぎない。数学は書道の時間じゃない。
② これは言い換えれば罫線に頼らないと綺麗な絵を書けないということ。これが非常にまずい。

理由2.本番(入試,資格試験など)では罫線などない
大学入試問題,各種模試,数学検定,学校考査,いずれも解答用紙に罫線はありません(※統計検定の記述問題は罫線あり)。したがって,普段から罫線に頼らずとも見やすい絵を書ける訓練を普段からしておかなければならない。定規やコンパス,そして罫線に頼らず,サッとフリーハンドで見やすい直線がかける,フリーハンドできれいな円がかける,フリーハンドで見やすい平面図,立体図が描ける,これらも大事な数学の能力です。なぜその力を訓練する機会を奪うのか。教育的にもよくないと思う。そして白紙にそれなりの精度で自在に図がかけるようになると,理由1と同じくここでもやはり罫線の存在が邪魔になってくる。目障り極まりない。

学校数学ではこのデメリットだらけの罫線ノートがスタンダードになっているけど,なぜでしょうね。不便さに慣れ,もはや不便を不便と思わなくなってしまっているから?長年ガラケーを使ってるとそれに何ら不満を感じず,スマホの必要性を感じない,あの感覚かな?でも,一度スマホに慣れればガラケーの不便さとスマホの便利さに気付き,もう二度とガラケーには戻れないものですけどね。

罫線ノートを使って罫線にそって板書を綺麗に写す!というこの慣習,教科書は型として学ばなければならない!というアレとすごく似た雰囲気を感じるんだよなあ……まあこれは邪推かな。

「ドットが目印に」って…いやいやその「目印」なしで書くのが大事な訓練でしょうよ…

 

 

 

学ぶということ

松坂和夫先生の『集合と位相』。去年の2月17日に読み始めた。記録をみると去年の12月23日に読み終えてる。基礎的な本ながら,一周するのに10カ月くらいかかってる。スランプで全然勉強していない期間が1ヶ月くらいあったので実質9カ月かな?

現在二周目を読んでいます。濃度までは割と簡単だから飛ばして,第3章順序集合から読み始めてます。現在第4章はじめあたり。

本はこの2週目以降がおいしい。1週目は何もかもが初めてで相手(本)の言っていることに振り回されるばかりで,吹っ飛ばされないように食らいついていくだけで一杯一杯になるけど,2週目,知識が部分的ではあれ整い,慣れてくると,それなりに余裕をもって読めるようになってくる。1週目で分からなかった箇所が分かるようになったり,苦しみながら理解した内容も割とあっさり理解できるようになったり。再発見と定着。知識が徐々に自分の「所有物」になっていく感覚。

この感覚を誰かに教わる/教えることは当然ながら不可能。難しい,のではなく,不可能。自分で自分の肉体を動かし,経験するしかない。これはかつては受験生時代にも感じたことではあるけれど,何かを学ぶということの本質は,誰かに教わることでは決してなく,自分自身で能動的に学ぶことだと改めて思う。

記述について

命題\(p\)が真である

は自然ですが,

条件\(p(x)\)が真である

は少し違和感があります.なぜなら,真か偽かは\(x\)に入る値によって変わるからです.でもこの言い回しはしばしば目にします.「\(x^2 \geq 0\)が成り立つ(は真である)」とか.一般に,「条件\(p(x)\)が成り立つ(は真である)」と書くとき,これは「どんな\(x\)についても」という一言が省略されている,と考えられます.つまり,

条件\(p(x)\)が成り立つ

とは,

どんな\(x\)についても,条件\(p(x)\)が成り立つ

論理記号を用いて書けば,
\[\forall x~p(x)\]
ということです.

以上を確認した上で,

次の数列\(\{a_n\}\)の一般項を求めよ.\[1,~3,~7,~13,~21,~\cdots\]

出典:高等学校 数学Ⅱ 数研出版

の解答について見てみたいと思います.次は教科書の解答の一部抜粋です(式番号は僕がつけました).

(中略)

よって,\(n\geq 2\)のとき,\[a_n=\cdots=1+\frac{1}{2}(n-1)n\]
すなわち\[a_n=n^2-n+1 \tag{1}\]
初項は\(a_1=1\)なので,この式は\(n=1\)のときにも成り立つ.
したがって,一般項は\[a_n=n^2-n+1 \tag{2}\]

 

\((1)\)は,\(n \geq 2\)において成り立つ式であり,\((2)\)は\(n \geq 1\)において成り立つ式です.\((1)\)と\((2)\)は見かけは同じでも主張が違うことに注意せねばなりません.

もちろん,このことを文頭で「\(n\geq 2\)のとき」という一言で示しているわけですが,個人的にはこれら二つの式は違う主張である以上,そのことを数式としてはっきり明示すべきと思う.つまり,\((1)\)においては
\[a_n=n^2-n+1 \quad (n \geq 2)\]
と,そして\((2)\)においては
\[a_n=n^2-n+1 \quad (n \geq 1)\]というように(もちろん前後の日本語も微調整).でないとその辺の主張が弱い気がする.実際,学び始めの高校生はこの辺はかなり危ういはずで,\((1)\)まで進んで「とりあえず式が求まった!おわり!\(n=1\)のとき?細かいことは気にしない!」となる高校生は少なくない(自分もそうでした).それに,上のような記述をすることによって,いやいや,そういう「細かいこと」まで気にするのが数学なんだよ,という気付きにも繋がるだろうし.

さらに,記事冒頭に確認したように,何も書かないと「すべての自然数について成り立つ」という意味になりかねません.つまり,\((1)\)の式
\[a_n=n^2-n+1\]
は正確に書けば
\[\forall n\in \mathbb{N}[n\geq 2 \rightarrow a_n=n^2-n+1]\]
ですが,これを\((1)\)のように\(a_n=n^2-n+1\)と単独で見た場合,
\[\forall n \in \mathbb{N}~[a_n=n^2-n+1]\]
という意味になりかねない.

僕は以前「教科書の記述を型として覚えさせるのが大切なのだから,\((n\geq 2)\)など書かずに教科書の記述通りに書くべき」と指摘を受けたことがある.実際,確かに教科書とまったく同じ記述(型)でなければ安心できない生徒も少なくないようです.だけど,解答を「型」なるものとして学ぶとその「型」に嵌めようとするがあまりそこに思考が介在する余地が消え失せ,結果とんでもないミスをしでかすことがある(そら考えてないのだからアタリマエ).そもそも解答なんてのは採点者に対する説明責任を果たしつつ論理的な誤りさえなければどう表現したっていいわけで,ならば別に教科書に盲目的に従う必要もなく,採点者そして何より自分自身への誤解がないように記述すべきでしょ,と僕は思うのです.

ついでながらノートなんかもそう.ノートをとる際,教科書の解答と全く同じ記述になっているひとも多いと思う.でも,教科書とまったく同じ内容なら,綺麗に印刷されている教科書を読めばいいのであって,それをそっくりそのまま写すことに意味はあるのでしょうかね.ノートというのは,未来の,おそらくは内容を完全に忘れているであろう自分へのメッセージでもある.だからこそ,教科書をそのまま写すのではなく,完全忘却した頭で読んでもすぐに理解を再現できるように,そして誤解のないように,なるべく自分の言葉でくどいくらいに気を遣いむしろ冗長な記述であるべきだと僕は思うわけです.

というわけで,教科書を金科玉条のごとく写経するなんて堅苦しいことはせず,自分の言葉で,自分自身が納得できるように自由に記述しましょう.「教科書の記述の簡潔さを学ぶべき」という意見もありますが,記述としての簡潔さとかそんなのは結果的経験的に得られるべきもので,初学者が初めから狙う類のものではないと思います.ってかそもそも「簡潔」っていうのか,アレ…

「やる気」を出すには

「やる気がでない」「勉強する気が起きない」よくありますね.というか,僕なんかはいつもそうですね.しかしどうやったら「やる気」が起きるのでしょう.何か大きな,ドラマ的な出来事ががあれば「やる気」が沸き起こるのかな?でも,そういった出来事なんてまずないでしょうねえ.そして大抵の出来事に起因する感情なんてそのほとんどが一過性のものです.

この,どうやったらやる気出るの問題に対する僕のひとつの提案は,「やる気なんて出さなくていいからとりあえず手を動かせ」ですね.というと,えっそれ本末転倒じゃない?やる気があるから(原因)勉強する(結果)わけでしょ?と思う人がほとんどだと思うけど,それはたぶん違う.少なくとも,心の中にやる気をメラメラと燃やしてから行動に移れ!みたいな根性論は完全に間違っている.

人間,最初は「やる気」が起きずとも,問題を解いたり計算をしているうちに徐々にではあるけどその行為が熱を帯びてくる.10分で切り上げるつもりが,もうあと5分粘ってみようかという気になる.1問やって終わらせるつもりが,あともう1問やってみるかという気になる.漫然と読んでいたら先の展開が気になり始める.このような,勉強という行為の中で徐々に(自然発生的に)生まれてくるもの,それが「やる気」の正体でしょう.つまり勉強をするから(原因)やる気がでる(結果).これ,言われてみれば誰しもが心当たりがあるのではないでしょうか.

「いや,その最初の『手を動かす』のがそもそもできないんだよ~」という人へ.そういった人たちはたぶん「勉強」のハードルを上げ過ぎ.「〇〇時間勉強しなくちゃならない」「〇十問とかなくちゃならない」なんて自分を追い詰めるから手を動かせない.そのへんはほんとテキトーでいいんです.「10分も勉強すればいいや」「1問解けばいいや」程度でいい(ゆるい!).それだって0でない以上前進してることには変わりはないし,立派な勉強ですからね.「とりあえず」と枕詞をおいたのはそういう意味です.

だから,だるいけどぼちぼちやるか~程度の気持ちでであっても机に向かえるように,最初に手を付けるモノは極力ゆるい課題にするのが大事.具体的に言うと,「あまり頭に負荷をかけない(思考力を要さない)」「短時間で量をこなせる」「自分の好きな/得意な/興味のある分野」この3つがポイント.数学でいうと定石問題や計算問題(知識で解ける系),あるいは興味のある未知の分野について触れた易しめの本(チャートみたいな固い本じゃなくて昔で言う実況中継みたいなやつ…若い人に通じるかな?)がおすすめ.思考の泥沼にはまる可能性の高い難易度の高い問題や話題から手を付けては絶対ダメ.これだと手が動かず,理解も進まず,やる気はダダ下がりになりますから.そういうのはもしやるのであれば勉強の中盤~終盤に持ってくるべきです.

このようにしてゆるい勉強を日々継続していくと,それは習慣化し,やがて「勉強している自分,勉強のできる自分」というidentityが徐々に形成されていく.すると,今度は逆に勉強をしない自分の方が不自然な自分になってくる.こんな好循環が生まれればその生徒はもうほっといても伸びますし,そんな経験は生涯通して役立つ糧になると思います.


…それでも勉強できないときは気仙沼は折角海が近いんだから割り切って海に散歩にでもいこう.これは岩井崎(きれい).干潮時に磯に行くと色んな生き物がいてポケモン探しみたいで楽しいよ!

問題演習

数学の演習問題って,大別すると,

  1. 既知の問題.解くのに必要な知識は揃っており,出題形式が多少違えどほとんど手が止まることのない問題.万が一解けなかったとしても,解答を見れば一目でその内容が理解できる問題.
  2. 未知の問題.解くのに必要な知識は揃っておらず,したがって解法を見つけるのに多くの時間を要する問題.ときに知識自体がないがゆえに解けない問題.解答を見てもその理解に時間を要する問題.

の2種類あると思う.それぞれの特徴をあげると,

(1.の長所)
・既に持っている知識がアウトプットされるため知識が実用レベルで定着する
・解いていて手が止まることがないのでストレスがない
・解けるので気分が高揚する.自己肯定感が湧く

(2.の長所)
・未知の知識が蓄積されることになるので,その知識をモノにできれば,確実に成長したことになる.
・既存の知識の範囲中で解決を図ることは,既存知識の運用法を学ぶことになる(俗にいう「思考力」).またその過程で既存知識の新たな側面を発見することがある.
・解けたら嬉しい

一方で,それぞれの演習における短所を挙げてみると,

(1.の短所)
・出来る(知っている)問題をいくらやっても実質的な成長にはならない
・とりあえず疲れはするので,それだけで満足(自己満足)になりがち

(2.の短所)
・とにかく時間がかかる
・基本的に解けないので,気持ちが萎える
・量がこなせないので,成長しているかどうか微妙

以上を鑑みると,この両者の勉強はバランスよく交えて学習していくことが望ましいと思う.ここで確実に言えるのは,

  • 勉強のし始めは1.レベルの演習から入った方がいい.なぜならとりあえず手が動くから自然と気持ちが前向きになる.
  • 1.のレベルの問題で満足せず,たとえ一問でもいいから,2.レベルの問題も毎日必ず触れる.

とくにひとつ目,「手が動かす」っていうのは精神衛生上非常に重要で,例えば一日の勉強を「悩む」こと(難しい問題)から始めると,気持ちは暗くなるし時間はダラダラ過ぎるしで僕の経験上からみてもあまりいいことがない.手も体の一部である以上,手を動かす=体を動かすということだから,手を動かす勉強から始めることは自然と精神が前向きになるなにかがあるようです.数学に限らず,例えば英語なら,英文や英単語帳を音読したりするのも有効です.

この過程で気分も高揚し,運動後のような一種の心地よい疲労感・達成感に満たされますが,ここで満足してはいけません.調子がついてきたところで,2.レベルの問題にも触り,頭に負荷をかけておいたり,新規知識を獲得したりすることもまた成長のためには不可欠です.

日々の学習について2

  • 質問しよう
    問題や内容が「分からない」と悩む生徒は多い.でも,具体的にどこが「分からない」のか,自分なりに分析しているだろうか.「どこが分からないのかわからない」・・・?それなら,自分がどこで躓いているのか,なぜ理解できないのか,先生に相談してみただろうか.「わからないけど,その分析も質問もしたくないから,そこは『察して』説明してほしい」という思いがもしあるなら,その考え方は改めなければなりません.
    生徒自身が頭と手を動かし,そこで発生した疑問について質問し,教師がそれに答え,生徒は理解し,次へ進む.そしてまた疑問が湧いてきて,それに教師が答え・・・というサイクル,成長にはこれが必要不可欠です(だから僕の塾では「対話」を重要視しています).・・・断言しますが,先生に一方通行的に教えてもらうだけ(授業を聞くだけ)では,実質的な成長は絶対にありえません.
    数学が苦手な生徒はまず,自分が出来るレベルからでいいから,泥臭くもがいてみよう.そしてその過程で発生した疑問を,恥ずかしがらずにどんどん質問しよう.どこがわからないのかすらわからないのなら,どこをから勉強し直せばいいのか,先生に相談しよう.そういった積極性は,数学ができるようになるための必要条件です.「質問できる」という環境を,最大限に利用しよう.

日々の学習について1

  • ノートをとるより授業を聞こう
    授業をよく聞き,本(教科書)をよく読み,理解すること
    まず,学校の授業をよく聞き,内容の理解に努めること.例え授業の内容が分からないくても,大まかな雰囲気だけは少なくとも掴めるはず.全体の3割でもわかればそれだけでも十分収穫です.まず,話を聞き,ざっくりでいいので理解に努めよう.また,たとえ理解できなくても,その経験,すなわち「分からないところ」が分かっただけでもそれはとても大きな収穫です.「分からないところ」が分かれば,あとはその箇所をピンポイントで復習するなり質問するなり参考書で調べるなりして理解すればいいのだから.
    また,授業を受ける際は,板書を取るよりも話を聞くことを優先させること.先生が話をしているのに,話そっちのけで「綺麗に」ノートを取ろうとするとなどはもってのほか(綺麗な解答解説など教科書に書いてある!).極端に言えば,大事だと思った内容だけをノートか教科書にざっくりメモしていればよい.とにかくまず,顔をあげて先生の話を聞こう.授業を大切に.
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