★182(で使うちしき)

\(f:S\rightarrow S^{\prime}\)が全単射であるとき,\[f(A^c)^c=f(A)\]

絵をかけばほんと「明らか」なんだけど…念のため…(鬱)

証明

\(f(A)\subset f(A^c)^c\)であること:
\(a^{\prime} \in f(A)=\{y|\exists x \in A[f(x)=y]\}\)とすれば,\(f(x)=a^{\prime}\)となる\(x \in A\)が存在する.これを\(x_1\)とおく.ここで,\(a^{\prime} \in f(A^c)=\{y|\exists x \in A^c[f(x)=y]\}\)と仮定すれば,\(f(x)=a^{\prime}\)となる\(x \in A^c\)が存在することになる.これを\(x_2\)とおく.すると\(f(x_1) =a^{\prime},f(x_2)=a^{\prime}\)より\(f(x_1)=f(x_2)\).今,\(f\)は(全)単射であるから,\(x_1=x_2\)となるが,しかしこれは\(x_1 \in A, x_2 \in A^c\)であることに矛盾する.したがって\(a^{\prime} \in f(A^c)^c\).よって\(f(A)\subset f(A^c)^c\).

\(f(A^c)^c \subset f(A)\)であること:
\(a^{\prime} \in f(A^c)^c(=S^{\prime}-f(A^c))\)とする.このとき\(a^{\prime} \notin f(A)\)と仮定すると,\(a^{\prime} \notin f(A^c),a^{\prime} \notin f(A)\).ここで\(S = A \cup A^c\)であるから,\(f(S) = f(A \cup A^c) = f(A) \cup f(A^c)\)(∵P45(5.3)).また,\(f\)は全(単)射であるから\(f(S) = S^{\prime}\).よって\(S^{\prime} = f(A) \cup f(A^c)\).\(a^{\prime} \notin f(A^c),a^{\prime} \notin f(A)\)より\(a^{\prime} \notin S^{\prime}\)となるがこれは矛盾である.したがって\(a^{\prime} \in f(A)\).よって\(f(A^c)^c \subset f(A)\).

証明終

そういえば以前「数学は『イメージ』で理解しろ(させろ)」と主張に出会ったことがある。だけど,それって言い換えれば「イメージできない数学は理解できない(理解する術がない)」ということにならないだろうか?直観のきく世界から出ないのであればそれでもいいのかも知れないけど。そもそも,「絵」や「たとえ話」で理解したものは理解したと言えるのだろうか?

どんなノートをつかうべき?

僕は無地ノート一択だと思う。

ノートなら,

ルーズリーフなら,

こんなの。 理由は,

理由1.罫線が邪魔
罫線が思考を縛るから。罫線があると,対象(文字,図,数式)を書くとき必ず罫線の存在を意識することになる。「罫線に沿って書こう」「罫線に合わせて図にすこし上に/下にずらそう」「下に行を半行ほど少しずらしたいけど罫線と被って気持ち悪いから一行あけてしまおう」「矢印書きたいけど罫線と被って気持ち悪い,罫線と重なるように書こう」「円を書くとき罫線邪魔で気が散る」「分数はどう書く?一行に詰めるか?二行に分けるか?」「\(\displaystyle \int\)は?\(\displaystyle \sum\)は?これも一行に詰めるには狭いな,一行おきに書くか?」みたいな。これがウザい。なんで罫線ごときにいちいち自分の思考を指図・邪魔されなくちゃならんのか。こんなどーでもいいことに脳のメモリが(ほんの僅かだったとしても)消費されるのはほんとバカらしい。これらのウザさは無地ノートを使うことですべて解決。自分の思うがままに自由に書けるわけだから。

まあ,罫線のメリット?を強いて挙げるとすれば
① 文章がまっすぐきれいに書ける
② 円はともかく平行線(を用いた図)は綺麗にかける
という点かな?

でもこれらは僕はメリットとは全く思わない。むしろ,デメリットでもあると思う。なぜなら,

① 文章が少しぶれたからといって情報としての内容・質に変化はない。行の角度が1度や2度傾いたからといって1次方程式が2次方程式になることはないし,分かりづらくなることもない。各行同士が平行に並んでキレイ!と喜ぶのは自己満足に過ぎない。数学は書道の時間じゃない。
② これは言い換えれば罫線に頼らないと綺麗な絵を書けないということ。これが非常にまずい。

理由2.本番(入試,資格試験など)では罫線などない
大学入試問題,各種模試,数学検定,学校考査,いずれも解答用紙に罫線はありません(※統計検定の記述問題は罫線あり)。したがって,普段から罫線に頼らずとも見やすい絵を書ける訓練を普段からしておかなければならない。定規やコンパス,そして罫線に頼らず,サッとフリーハンドで見やすい直線がかける,フリーハンドできれいな円がかける,フリーハンドで見やすい平面図,立体図が描ける,これらも大事な数学の能力です。なぜその力を訓練する機会を奪うのか。教育的にもよくないと思う。そして白紙にそれなりの精度で自在に図がかけるようになると,理由1と同じくここでもやはり罫線の存在が邪魔になってくる。目障り極まりない。

学校数学ではこのデメリットだらけの罫線ノートがスタンダードになっているけど,なぜでしょうね。不便さに慣れ,もはや不便を不便と思わなくなってしまっているから?長年ガラケーを使ってるとそれに何ら不満を感じず,スマホの必要性を感じない,あの感覚かな?でも,一度スマホに慣れればガラケーの不便さとスマホの便利さに気付き,もう二度とガラケーには戻れないものですけどね。

罫線ノートを使って罫線にそって板書を綺麗に写す!というこの慣習,教科書は型として学ばなければならない!というアレとすごく似た雰囲気を感じるんだよなあ……まあこれは邪推かな。

「ドットが目印に」って…いやいやその「目印」なしで書くのが大事な訓練でしょうよ…

 

 

 

★P154_2

また明らかに
\begin{align*}
&M \in \mathfrak{O} \Longleftrightarrow M^{\circ}=M \tag{2.4}\\
&M \subset N \Longrightarrow M^{\circ} \subset N^{\circ}\tag{2.5}
\end{align*}

 
証明

\((2.4)\)
必要性.\(M\)を開集合とすると,\(M\)に含まれる開集合として\(M\)自身がある.したがって\(M\)に含まれる開集合全体の和集合\(M^{\circ}\)をとるとそれは\(M\),すなわち\(M^{\circ}=M\)となる.
十分性.\(M\)に含まれる開集合の和集合が\(M\)であるとする.開集合の定義により,開集合の和集合は開集合なので,\(M\)は開集合,すなわち\(M \in \mathfrak{O}\).

\((2.5)\)
\((M_{\lambda})_{\lambda\in\Lambda}\)を\(M\)に含まれる開集合全体から成る任意の集合族とする.\(M\subset N,~a \in M^{\circ}\)と仮定すると,\(a \in M_{\lambda}\)となる\(\lambda\)が存在する.\(M_{\lambda} \subset \displaystyle \bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda} = M^{\circ} \subset M \subset N\)であるから,\(M_{\lambda}\)は\(N\)に含まれる開集合でもある.したがって\(M_{\lambda} \subset N^{\circ}\).ゆえに\(a \in N^{\circ} \).よって\(M^{\circ}\subset N^{\circ}\).

証明終

★P154

定義から明らかに,\(M^{\circ}\)は次の3条件によって特徴付けられる.
\begin{align*}
&M^{\circ}\subset M\tag{2.1}\\
&M^{\circ}\in\mathfrak{O}\tag{2.2}\\
&O \subset M,O\in\mathfrak{O} \Rightarrow O \subset M^{\circ}\tag{2.3}
\end{align*}

 
証明

\((M_\lambda)_{\lambda\in \Lambda}\)を\(M\)に含まれる開集合から成る任意の集合族とすれば,示したいことは
\[M^{\circ}=\displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda}\Longleftrightarrow \begin{cases}M^{\circ}\subset M&(2.1)\\M^{\circ}\in\mathfrak{O}&(2.2)\\O\subset M,O\in\mathfrak{O} \Rightarrow O \subset M^{\circ}&(2.3)\end{cases}\]である.必要性はマジで明らかだから,十分性を示す.
\[M^{\circ}=\displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda}\Longleftrightarrow M^{\circ} \subset \displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda} \land \displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda} \subset M^{\circ}\]\(M^{\circ} \subset \displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda}\)であること:
\((2.1),~(2.2)\)により,\(M^{\circ}\)は\(M\)に含まれる開集合である.したがって\(M^{\circ}=M_{\lambda}\)となる\(\lambda\)が存在する.ゆえに\(M^{\circ} \subset \displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda}\)

\(\displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda} \subset M^{\circ}\)であること:
\(a\in\displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda}\)とすると,\(a\in M_{\lambda}\)となる\(\lambda \in \Lambda\)が存在する.\(M_{\lambda} \subset M,~M_{\lambda}\in \mathfrak{O}\)であるから,\((2.3)\)によって\(M_{\lambda} \subset M^{\circ}\).したがって\(a \in M^{\circ}\).ゆえに\(\displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda} \subset M^{\circ}\)

以上により\(M^{\circ}=\displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda}\)
証明終

学ぶということ

松坂和夫先生の『集合と位相』。去年の2月17日に読み始めた。記録をみると去年の12月23日に読み終えてる。基礎的な本ながら,一周するのに10カ月くらいかかってる。スランプで全然勉強していない期間が1ヶ月くらいあったので実質9カ月かな?

現在二周目を読んでいます。濃度までは割と簡単だから飛ばして,第3章順序集合から読み始めてます。現在第4章はじめあたり。

本はこの2週目以降がおいしい。1週目は何もかもが初めてで相手(本)の言っていることに振り回されるばかりで,吹っ飛ばされないように食らいついていくだけで一杯一杯になるけど,2週目,知識が部分的ではあれ整い,慣れてくると,それなりに余裕をもって読めるようになってくる。1週目で分からなかった箇所が分かるようになったり,苦しみながら理解した内容も割とあっさり理解できるようになったり。再発見と定着。知識が徐々に自分の「所有物」になっていく感覚。

この感覚を誰かに教わる/教えることは当然ながら不可能。難しい,のではなく,不可能。自分で自分の肉体を動かし,経験するしかない。これはかつては受験生時代にも感じたことではあるけれど,何かを学ぶということの本質は,誰かに教わることでは決してなく,自分自身で能動的に学ぶことだと改めて思う。

数学的帰納法

前回の「任意」について思い出したことをひとつ.

次のような命題の証明について考えてみます.\(p(n)\)は条件,\(n\)を自然数とします.

\[\forall n~p(n) \tag{\(\ast\)}\]

この命題は,
\[\text{どんな\(n\)についても\(p(n)\)が真である}\]
ということですから,
\[p(1),~p(2),~p(3),~p(4),~\cdots~\text{が真である}\]
ことを証明する,ということです.(これが目標).これを証明するには,どうすればよいかを考えます.

まず,\[p(1)\text{が真である}\tag{A}\]ことを示します.続いて,\[p(2),p(3),\cdots \text{が真である}\]ことも同様に示していけばよい・・・と言いたいところですが,当然,無限回の考察は現実的には不可能です。そこで,天下りですが次の命題を考えます.

\[p(n) \Longrightarrow p(n+1)\tag{B}\]

この命題は,
\[\forall n[p(n) \longrightarrow p(n+1)]\]
すなわち,
\[\text{すべての\(n\)について\(p(n) \rightarrow p(n+1)\)が成り立つ}\]
ということですから,\(n=1,2,3,\cdots\)と代入して

\[
\begin{cases}
&\text{\(p(1) \rightarrow p(2)\)が成り立つ}\\
&\text{\(p(2) \rightarrow p(3)\)が成り立つ}\\
&\text{\(p(3) \rightarrow p(4)\)が成り立つ}\\
&\cdots
\end{cases}\tag{B’}
\]

と言い換えられることになります.この命題(B)(すなわち(B’))が証明できたとしましょう.そのとき,どのようなこことがわかるか,ご利益をみてみます.

「\(p(1) \rightarrow p(2)\)が成り立つ」について見てみます.真理値表
\(p(1) \rightarrow p(2)\)が真となる行に着目すると,次の①②③の3通りの状況が考えられます.


しかし,\(p(1)\)が真であることは既に(A)で確認済みなので,\(p(1)\)の列が偽となる②と③の状況は起こり得ず,結局①の状況しかありえません。この①の行を眺めると,\(p(2)\)も真であることが分かります.これで,\(p(1)\)と\(p(2)\)が真であることがわかりました.

同様に考えて,
「\(p(2) \rightarrow p(3)\)が成り立つ」ことから,\(p(3)\)も真となります.
「\(p(3) \rightarrow p(4)\)が成り立つ」ことから,\(p(4)\)も真となります.
「\(p(4) \rightarrow p(5)\)が成り立つ」ことから,\(p(5)\)も真となります.

となり,結局,\[p(1),~p(2),~p(3),~p(4),~\cdots~\text{が真である}\]であること,すなわち冒頭の命題\[\forall n~p(n) \tag{\(\ast\)}\]が証明されました.命題(B)を示すご利益は,ここにあったというわけです.

以上をまとめると,\((\ast)\)を証明するためには,命題(A)かつ(B),すなわち\[p(1) \land (p(n) \Rightarrow p(n+1))\]
を確認すればよい,ということがわかります.すなわち,

数学的帰納法\[p(1) \land \left(p(n) \Rightarrow p(n+1)\right) \Longrightarrow \forall n~p(n)\]

が言えることになります.これを数学的帰納法といいます.

ちなみに教科書では,「任意(\(\forall\))」を含む主張(述語論理)を頑なに扱わないため,この数学的帰納法を扱う際も

数学的帰納法を用いて,次の等式を証明せよ.\[1+2+3+\cdots+n=\frac{1}{2}n(n+1)\]

出典:高等学校 数学Ⅱ 数研出版

 

という,本来あるべき「\(\forall\)」「任意の」「すべての」という記述のない主張になっています.しかし,上で見たように,ここでは「任意の」「すべての」が主張の根幹であって,それを書かなければ何をさせたいのか,何をすべきなのかそのアウトラインが全然見えてこないと思うのです.だから,ここは

数学的帰納法を用いて,任意の自然数\(n\)に対して次の等式が成り立つことを証明せよ.\[1+2+3+\cdots+n=\frac{1}{2}n(n+1)\]

と出題すべきだと僕は思う.これを意図しつつも書いていないということは「空気読めよ」ってことなんでしょうか(これとかもそう…!).でも初めて学ぶ高校生ががそんなことわかりますかね….任意だのなんだの考えずにとりあえず「型」通りにやれってことかな?まあ,たしかにそっちの方が「あたりさわりなく」できるタイプは量産できるかもしれませんが.教科書のこういうところに個人的に?と思ってしまいます.

記述について

命題\(p\)が真である

は自然ですが,

条件\(p(x)\)が真である

は少し違和感があります.なぜなら,真か偽かは\(x\)に入る値によって変わるからです.でもこの言い回しはしばしば目にします.「\(x^2 \geq 0\)が成り立つ(は真である)」とか.一般に,「条件\(p(x)\)が成り立つ(は真である)」と書くとき,これは「どんな\(x\)についても」という一言が省略されている,と考えられます.つまり,

条件\(p(x)\)が成り立つ

とは,

どんな\(x\)についても,条件\(p(x)\)が成り立つ

論理記号を用いて書けば,
\[\forall x~p(x)\]
ということです.

以上を確認した上で,

次の数列\(\{a_n\}\)の一般項を求めよ.\[1,~3,~7,~13,~21,~\cdots\]

出典:高等学校 数学Ⅱ 数研出版

の解答について見てみたいと思います.次は教科書の解答の一部抜粋です(式番号は僕がつけました).

(中略)

よって,\(n\geq 2\)のとき,\[a_n=\cdots=1+\frac{1}{2}(n-1)n\]
すなわち\[a_n=n^2-n+1 \tag{1}\]
初項は\(a_1=1\)なので,この式は\(n=1\)のときにも成り立つ.
したがって,一般項は\[a_n=n^2-n+1 \tag{2}\]

 

\((1)\)は,\(n \geq 2\)において成り立つ式であり,\((2)\)は\(n \geq 1\)において成り立つ式です.\((1)\)と\((2)\)は見かけは同じでも主張が違うことに注意せねばなりません.

もちろん,このことを文頭で「\(n\geq 2\)のとき」という一言で示しているわけですが,個人的にはこれら二つの式は違う主張である以上,そのことを数式としてはっきり明示すべきと思う.つまり,\((1)\)においては
\[a_n=n^2-n+1 \quad (n \geq 2)\]
と,そして\((2)\)においては
\[a_n=n^2-n+1 \quad (n \geq 1)\]というように(もちろん前後の日本語も微調整).でないとその辺の主張が弱い気がする.実際,学び始めの高校生はこの辺はかなり危ういはずで,\((1)\)まで進んで「とりあえず式が求まった!おわり!\(n=1\)のとき?細かいことは気にしない!」となる高校生は少なくない(自分もそうでした).それに,上のような記述をすることによって,いやいや,そういう「細かいこと」まで気にするのが数学なんだよ,という気付きにも繋がるだろうし.

さらに,記事冒頭に確認したように,何も書かないと「すべての自然数について成り立つ」という意味になりかねません.つまり,\((1)\)の式
\[a_n=n^2-n+1\]
は正確に書けば
\[\forall n\in \mathbb{N}[n\geq 2 \rightarrow a_n=n^2-n+1]\]
ですが,これを\((1)\)のように\(a_n=n^2-n+1\)と単独で見た場合,
\[\forall n \in \mathbb{N}~[a_n=n^2-n+1]\]
という意味になりかねない.

僕は以前「教科書の記述を型として覚えさせるのが大切なのだから,\((n\geq 2)\)など書かずに教科書の記述通りに書くべき」と指摘を受けたことがある.実際,確かに教科書とまったく同じ記述(型)でなければ安心できない生徒も少なくないようです.だけど,解答を「型」なるものとして学ぶとその「型」に嵌めようとするがあまりそこに思考が介在する余地が消え失せ,結果とんでもないミスをしでかすことがある(そら考えてないのだからアタリマエ).そもそも解答なんてのは採点者に対する説明責任を果たしつつ論理的な誤りさえなければどう表現したっていいわけで,ならば別に教科書に盲目的に従う必要もなく,採点者そして何より自分自身への誤解がないように記述すべきでしょ,と僕は思うのです.

ついでながらノートなんかもそう.ノートをとる際,教科書の解答と全く同じ記述になっているひとも多いと思う.でも,教科書とまったく同じ内容なら,綺麗に印刷されている教科書を読めばいいのであって,それをそっくりそのまま写すことに意味はあるのでしょうかね.ノートというのは,未来の,おそらくは内容を完全に忘れているであろう自分へのメッセージでもある.だからこそ,教科書をそのまま写すのではなく,完全忘却した頭で読んでもすぐに理解を再現できるように,そして誤解のないように,なるべく自分の言葉でくどいくらいに気を遣いむしろ冗長な記述であるべきだと僕は思うわけです.

というわけで,教科書を金科玉条のごとく写経するなんて堅苦しいことはせず,自分の言葉で,自分自身が納得できるように自由に記述しましょう.「教科書の記述の簡潔さを学ぶべき」という意見もありますが,記述としての簡潔さとかそんなのは結果的経験的に得られるべきもので,初学者が初めから狙う類のものではないと思います.ってかそもそも「簡潔」っていうのか,アレ…

\(A.\)(答え)

中学生や高校入りたての1年生の解答を見ていてものすっごい気になることがあります.それは,答えを\(A.\)と書くこと….僕はいいたい.

答えを\(A.\)と書くのはやめましょう

と.理由は3つ….

理由1
答案において文字を使う以上,その文字が何を表しているのかは明確に定義しておかねばなりません.では,\(A.\)とは一体何を表しているのでしょうか?\(A\)という文字の明確な定義がないということがまず問題です.…いや「常識的に」考えれば\(Answer\)の略だろ,と言われそうですが,その「常識」とは誰の常識でしょうか?それ,中学校特有のローカルルールに過ぎないのでは…?実際,答えを\(A.\)と書いている数学書,いや高校参考書ですら僕は一度も目にしたことがないのですが…(数学書にいたってはそもそも「問題」と「答え」という形式すら少なくなってきますが).つまり,定義していない以上,これは意味不明な文字,と言わざるを得ないわけです.なので,どうしても使いたいのなら,答案用紙の一番最初に「以下,答えを\(A.\)で表すことにする.」と一言宣言して文字\(A.\)を定義すべきと僕は思います.

理由2
とはいえ,上のように冒頭で定義するにしても,\(A.\)と表記するのはやっぱりよくないと思う.なぜなら,数学において\(A\)という英文字が登場するシーンは沢山あるから.座標平面または空間上の点を\(A\)とおくのは毎度のことだし,数式を処理する際は‘カタマリ’を\(A\)とおいたり,式番号として\(A\)を使ったりもする.幾何では頂点を\(A\)とおくし,集合では集合そのものを\(A\)で表し,確率では事象(これも集合ですが)を\(A\)と表したり….などなど.これらの際,答えを\(A.\)などと書いたりしたら,\(A\)という文字に二重の意味を持たせることになり,非常に気持ち悪い,どころか記述としては非常にまずい.…というか,ここまで理由2で出てきた\(A\)という英文字を俯瞰してみてください.数学的な意味をもつ\(A\)と答えという意味しかもたない\(A\),見分けつかないでしょ?それだけでもう気持ち悪くない?

理由3
さらに,数学では先に進むにつれていろいろな文字を使うようになります.中学では高々英文字程度(+ギリシャ文字\(\pi\))?ですが,その後高校へと進めば英文字の小文字大文字のみならず一部ギリシャ文字,さらに大学へ進めばギリシャ文字はほとんどすべて使うし,大文字もよく見られるようなる.英文字もそれまで用いていたブロック体だけではなくボールド体や花文字で登場したり,さらにはドイツ文字まで使ったり.そんな多種多様な文字を使っていく中,一番馴染み深いブロック体の英文字\(A\)に「答え」なんて役割を担わせるのはなんというかものすごい文字の無駄遣いな気がするのです.

というわけで,中学生の皆さん,はっきりと「間違いだよ」とは言いづらいけど,答えを\(A.\)で書くのはなるべく避けた方がいいですよ.いまいまはいいかもしれないけど,将来的なことを考えるとね.

 

「やる気」を出すには

「やる気がでない」「勉強する気が起きない」よくありますね.というか,僕なんかはいつもそうですね.しかしどうやったら「やる気」が起きるのでしょう.何か大きな,ドラマ的な出来事ががあれば「やる気」が沸き起こるのかな?でも,そういった出来事なんてまずないでしょうねえ.そして大抵の出来事に起因する感情なんてそのほとんどが一過性のものです.

この,どうやったらやる気出るの問題に対する僕のひとつの提案は,「やる気なんて出さなくていいからとりあえず手を動かせ」ですね.というと,えっそれ本末転倒じゃない?やる気があるから(原因)勉強する(結果)わけでしょ?と思う人がほとんどだと思うけど,それはたぶん違う.少なくとも,心の中にやる気をメラメラと燃やしてから行動に移れ!みたいな根性論は完全に間違っている.

人間,最初は「やる気」が起きずとも,問題を解いたり計算をしているうちに徐々にではあるけどその行為が熱を帯びてくる.10分で切り上げるつもりが,もうあと5分粘ってみようかという気になる.1問やって終わらせるつもりが,あともう1問やってみるかという気になる.漫然と読んでいたら先の展開が気になり始める.このような,勉強という行為の中で徐々に(自然発生的に)生まれてくるもの,それが「やる気」の正体でしょう.つまり勉強をするから(原因)やる気がでる(結果).これ,言われてみれば誰しもが心当たりがあるのではないでしょうか.

「いや,その最初の『手を動かす』のがそもそもできないんだよ~」という人へ.そういった人たちはたぶん「勉強」のハードルを上げ過ぎ.「〇〇時間勉強しなくちゃならない」「〇十問とかなくちゃならない」なんて自分を追い詰めるから手を動かせない.そのへんはほんとテキトーでいいんです.「10分も勉強すればいいや」「1問解けばいいや」程度でいい(ゆるい!).それだって0でない以上前進してることには変わりはないし,立派な勉強ですからね.「とりあえず」と枕詞をおいたのはそういう意味です.

だから,だるいけどぼちぼちやるか~程度の気持ちでであっても机に向かえるように,最初に手を付けるモノは極力ゆるい課題にするのが大事.具体的に言うと,「あまり頭に負荷をかけない(思考力を要さない)」「短時間で量をこなせる」「自分の好きな/得意な/興味のある分野」この3つがポイント.数学でいうと定石問題や計算問題(知識で解ける系),あるいは興味のある未知の分野について触れた易しめの本(チャートみたいな固い本じゃなくて昔で言う実況中継みたいなやつ…若い人に通じるかな?)がおすすめ.思考の泥沼にはまる可能性の高い難易度の高い問題や話題から手を付けては絶対ダメ.これだと手が動かず,理解も進まず,やる気はダダ下がりになりますから.そういうのはもしやるのであれば勉強の中盤~終盤に持ってくるべきです.

このようにしてゆるい勉強を日々継続していくと,それは習慣化し,やがて「勉強している自分,勉強のできる自分」というidentityが徐々に形成されていく.すると,今度は逆に勉強をしない自分の方が不自然な自分になってくる.こんな好循環が生まれればその生徒はもうほっといても伸びますし,そんな経験は生涯通して役立つ糧になると思います.


…それでも勉強できないときは気仙沼は折角海が近いんだから割り切って海に散歩にでもいこう.これは岩井崎(きれい).干潮時に磯に行くと色んな生き物がいてポケモン探しみたいで楽しいよ!

「ならば」の否定

問題
\(a,~b\)を有理数とするとき,\(\sqrt{3}\)が無理数であることを用いて,「\(a+b\sqrt{3}=0\)ならば\(a=0\)かつ\(b=0\)」であることを証明せよ.

定番問題です。解答を見ると,次のように始まります。

\(b\neq 0\)とすると…

 

賢明な生徒であればここで「背理法かな?」気付くはず。それは正しいです。では,与えられた命題「\(a+b\sqrt{3}=0\)ならば\(a=0\)かつ\(b=0\)」の否定が「\(b\neq 0\)」ということでしょうか?…うーん明らかに違う気が。。

「\(a+b\sqrt{3}=0\)ならば\(a=0\)かつ\(b=0\)」の否定がどうなるかに注意しつつ,証明を作ってみます。与えられた命題は論理記号を用いて「\(a+b\sqrt{3}=0\Longrightarrow a=0\land b=0\)」と書けることに注意して,

証明(その1)

\[\overline{ a+b\sqrt{3}=0 \Longrightarrow a=0 \land b=0}\]と仮定する.
\begin{align}
&\overline{ a+b\sqrt{3}=0 \Longrightarrow a=0 \land b=0}\\
\Longleftrightarrow~ &\overline{\overline{a+b\sqrt{3}=0} \lor (a=0 \land b=0)}&(\Rightarrow \text{の定義})\\
\Longleftrightarrow~ &a+b\sqrt{3}=0 \land \overline{a=0 \land b=0}&(\text{ドモルガンの法則})\\
\Longleftrightarrow~ &a+b\sqrt{3}=0 \land (a \neq 0 \lor b \neq 0)&(\text{ドモルガンの法則})\\
\Longleftrightarrow~ &(a+b\sqrt{3}=0 \land a \neq 0 ) \lor (a+b\sqrt{3}=0 \land b \neq 0)&(\text{分配法則})\\
\Longleftrightarrow~ &\left(1+\frac{b}{a}\sqrt{3}=0 \land a \neq 0 \right) \lor \left(\frac{a}{b}+1\sqrt{3}=0 \land b \neq 0\right)\\
\Longleftrightarrow~ &\left(\frac{-3b}{a}=\sqrt{3} \land a \neq 0 \right) \lor \left(-\frac{a}{b}=\sqrt{3} \land b \neq 0\right)\\
\Longleftrightarrow~ &\bot \lor \bot\\
\Longleftrightarrow~ &\bot
\end{align}

したがってもとの命題は正しい.

証明終

\(\bot\)は矛盾命題を表します。

…では,模範解答の「\(b\neq 0\)とすると~」は一体何をしているのでしょうか?これはおそらく以下のようだと思われます:

証明(その2)

\[
\begin{align}
&a+b\sqrt{3}=0 \Rightarrow b=0 \\
\overset{(\ast)}\Longleftrightarrow~&a+b\sqrt{3}=0 \Rightarrow a+b\sqrt{3}=0 \land b=0 \\
\Longleftrightarrow~ &a+b\sqrt{3}=0 \Rightarrow a=0 \land b=0
\end{align}
\]
であるから,\[a+b\sqrt{3}=0 \Rightarrow b=0\]を示せばよい.この命題を否定すると\[a+b\sqrt{3}=0 \land b\neq 0\]であるが,
\[a+b\sqrt{3}=0 \land b\neq 0\Longleftrightarrow\sqrt{3}=-\frac{a}{b} \land b\neq 0\]これは矛盾である.

証明終

上の証明における\((\ast)\)は,(直観的にはまあ明らか,ではありますが)\[(P\Rightarrow Q) \Longleftrightarrow (P\Rightarrow P \land Q)\]という論理式によります。いずれにしても,ならば(含意)の否定というものを学んでいない以上,上のような証明は作りようがない。いきなり「\(b \neq 0\)とする」なんて言われても納得しようがないし,安易に納得してはいけない。ちなみにこの解答の脚注にはこんな一言が載っています。「結論が\(p\)かつ\(q\)という命題を背理法を用いて証明するときは\(\overline{p}\)または\(\overline{q}\)のみを仮定して矛盾を導けばよい」…でもそうすべき理由とその方針が正しい理由は?

まあ,ある程度はブラックボックス化するのはやむを得ないとはいえ,ここは端折るところではないのでは…と思います。さもなければそもそも\(P\Rightarrow Q \land R\)なんて命題の証明なんて取り扱わないで欲しい。生徒に説明するとき誤魔化すハメになりほんと迷惑極まりない。

 

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