★P106

…その場合,\((W_{\lambda},\leq _{\lambda}),(W_{\lambda^{\prime}},\leq _{\lambda^{\prime}})\)のいずれか一方は他方の切片,したがって部分順序集合であるから…

 

松坂先生の集合・位相入門,理解できない箇所はところどころあるけどここもその一つ。周回後のレベルアップした(であろう)自分に期待するんだけど読むたびにやっぱりなんか釈然としない。多分しょーもないことなんだろうけど…。色々考えた末,以下の理解に落ち着いた:

理解

たとえば\((W_{\lambda},\leq _{\lambda})\)が\((W_{\lambda^{\prime}},\leq _{\lambda^{\prime}})\)の切片であるとする.切片\[(W_{\lambda^{\prime}},\leq _{\lambda^{\prime}})\langle a \rangle(= \{x|x \in W_{\lambda^{\prime}},x \leq_{\lambda^{\prime}} a\})\]これ自体は(あくまで\(W^{\prime}\)の元から順序\(\leq_{\lambda^{\prime}}\)で\(a\)よりも小さい元を集めたものに過ぎないから)ただの\(W_{\lambda^{\prime}}\)の部分集合であり,順序は定義されていない.しかし,一般に,順序集合\(A\)の空でない任意の部分集合\(M\)は,順序が与えれれていなくても,「\(A\)における順序を\(M\)上に制限した」と考えることで\(A\)と同じ順序が与えれられる(※).したがって,部分集合\((W_{\lambda^{\prime}},\leq _{\lambda^{\prime}})\langle a \rangle\)は順序集合\[((W_{\lambda^{\prime}},\leq _{\lambda^{\prime}})\langle a \rangle , \leq_{\lambda^{\prime}})\]となる.これが\((W_{\lambda},\leq _{\lambda})\)に等しいから\[\leq_{\lambda^{\prime}}=\leq _{\lambda}\]となる.

理解終

※は89,90ページの部分順序集合についての記述から判断したもののちょっと自信ない。
…まあ,さしあたりこの理解でいいや^^;

★P263(問題4の一部)

\[\forall \epsilon >0 \exists \delta >0[d^{\prime\prime}(x,y) \Longrightarrow d(x,y)<\epsilon]\]を示せ.ただし,\(d^{\prime\prime}(x,y):=\min\{1,d(x,y)\}\)

証明

与えられた\(\epsilon\)が\(\epsilon < 1\)であれば\(\delta = \epsilon\)と定め,\(\epsilon \geq 1\)であれば\(\delta = \delta^{\prime} < 1 (\leq \epsilon)\)と定めればよい.以下,それを確かめる.

\(\epsilon < 1\)のとき:
\(d^{\prime\prime}(x,y):=\min\{1,d(x,y)\}<\epsilon \).\(1 \leq d(x,y)\)とすれば\(\min\{1,d(x,y)\}=1<\epsilon\)となり矛盾.したがって\(1>d(x,y)\)である.このとき,\(\min\{1,d(x,y)\}=d(x,y)<\epsilon\)

\(\epsilon \geq 1\)のとき:
\(d^{\prime\prime}(x,y):=\min\{1,d(x,y)\}<\delta^{\prime}(<1)\).\(1 \leq d(x,y)\)とすれば\(\min\{1,d(x,y)\}=1<\delta^{\prime}<1\)となり矛盾.したがって\(1>d(x,y)\)である.このとき\(\min\{1,d(x,y)\}=d(x,y)<\delta^{\prime}<1\leq \epsilon\)より\(d(x,y)<\epsilon\)

証明終

多分簡単な問題だと思うんですけど任意に与えられた正数\(\epsilon\)をそのままで\(\delta\)探しして結構時間がかかってしまった…

これ記法や表現を適当に変えれば高校生向けの論理の問題に出来る気がします。

英語学習

英語を勉強しています。もちろんこれが初めての英語学習ではなく,遡ればDUO3.0で英文ごと英単語を覚え,富田一彦先生や薬袋善朗先生の本で文法を学んできました。文法は数学と一緒で一度理解してしまうとなかなか忘れない。実際,適当な文を読んでみても文の構造を判断するのに大きく困ることはほぼない(=読める)のでひとまず安心。では単語は…?というとこれもなかなか忘れていない!10代の若いときにがっつり記憶しておくってほんと大事!…とはいえその単語力もせいぜい大学受験レベルなので,リハビリを兼ねつつももっと上の語彙力を身に付けたいと思い,教材に選んだのがZ会の単語帳『Core 1900』。

まあ勉強,とは言っても,進度は一日150ワードくらいの文章を一日一つ,気分次第で二つというゆるいペース。ゆるくないとほんと続かないので!(その代わり毎日欠かさず)。でも,そのゆるさのおかげで難なく一周終わり(5/5時点)。ゆるい勉強ってやっぱいい。

今から2週目に入りつつ,同時進行で同じくZ会の『Opinion 1200』を進めようとおもいます。英文の構造を調べたりそれを大きな声で音読するのは数学の息抜きとしてもいい感じです。

数学記号の読み方

\[\overrightarrow{a}\]を「エーベクトル」と読む生徒が少なくありません。もちろん,これは学校でそのように習ったからでしょう。実際,僕が学校で教えていたときもそのように読む先生がいました。しかし,例えば「\(f(x)\)」を「かんすうエフエックス」,「\(n\in \mathbb{N}\)」を「しぜんすうエヌ」などと読むのに,\(\overrightarrow{a}\)だけ「エーベクトル」と読むのはおかしくはないだろうか?すごく違和感。まあ,結局伝わればいいわけだし間違いではないのかもしれないけど…ただ読み方ひとつでいろいろ察しちゃうのである程度気を遣った方がいいと個人的に思います。先々の数学へ違和感なく接続するためにも。

他にも,\[f'(x)\]は大抵「エフダッシュエックス」と読むひとがほとんどだと思うけどこれは「エフプライムエックス」と読むべき。本来\(\prime\)は「プライム」という記号であり,「ダッシュ」は「-」という記号。だから「エフダッシュ」だと「\(f\)-」になると思うんだけど…。高校数学ではなぜか「ダッシュ」と「プライム」のこの誤用が慣例になっている。謎。

(追記。『ブレードランナー2049』という映画を日本語吹き替えで見ていたら「捜査官 ケー ディー シックス ダッシュ スリー ドット セブン」というセリフがあったので日本語字幕,英語音声でそれぞれ確認してみると「捜査官 KD63.7」「Officer K D six dash three dot seven」でした)

あとは大文字,例えば\[A\]は「ラージエー」ではなく「キャピタルエー」と読むべきだと思う。

上の例で思い出したけど「関数」って写像のことだから「関数\(f\)」なら分かるけど「関数\(f(x)\)」ってなんかおかしくない??って気もしますが…とはいえその辺突っ込み出すとさすがに不便なのでここはアバウトに認めていいと思いますが。

他にも探せばいろいろありそう(僕自身の誤読・誤用も含め)。中高の数学ってなぜかこの種の「方言」があったりするのでこういうのは専門家(大学の先生)に聞くのが理想ですね。なかなか機会がないけど。

追記。あと母集団の大きさを「母数」と呼ぶのをしばしば耳にしますがこれ聞くたびになんかゾワゾワする。母数は平均\(\mu\)や分散\(\sigma^2\)など母集団における未知のパラメータを指す言葉だと思います…。

以上日常のちょっと気になることでした。

平面の方程式

平面の方程式を作ってみます。

ここでは,平面はその平面の垂直方向とその平面が通る1点が定まれば決定することに着目します。平面の法線ベクトルを\(\overrightarrow{n}=(a,b,c)\),平面が通る1点の座標を\(A(a_0,b_0,c_0)\),平面上の任意の点を\(P(x,y,z)\)とおくことにします。\begin{align*}
&\overrightarrow{AP} \cdot \overrightarrow{n} = 0\\
\Longleftrightarrow~ &\left(\begin{array}{c} x-a_0 \\ y-b_0 \\ z-c_0 \end{array}\right)\cdot\left(\begin{array}{c} a \\ b \\ c \end{array}\right)= 0\\
\Longleftrightarrow~ &a(x-a_0)+b(y-b_0)+c(z-c_0)=0\\
\Longleftrightarrow~ &ax+by+cz-aa_0-bb_0-cc_0=0\\
\Longleftrightarrow~ &ax+by+cz+d=0
\end{align*}よって,平面の方程式は\(ax+by+cz+d=0\)と書けること,そしてその法線ベクトルが\((a,b,c)\)で表されることが分かりました(途中,\(-aa_0-bb_0-cc_0=d\)とおきました)。直線の方程式が\(ax+by+c=0\)と書けること,そしてその法線ベクトルが\((a,b)\)で表されることにそっくりですね。

★182(で使うちしき)

\(f:S\rightarrow S^{\prime}\)が全単射であるとき,\[f(A^c)^c=f(A)\]

絵をかけばほんと「明らか」なんだけど…念のため…(鬱)

証明

\(f(A)\subset f(A^c)^c\)であること:
\(a^{\prime} \in f(A)=\{y|\exists x \in A[f(x)=y]\}\)とすれば,\(f(x)=a^{\prime}\)となる\(x \in A\)が存在する.これを\(x_1\)とおく.ここで,\(a^{\prime} \in f(A^c)=\{y|\exists x \in A^c[f(x)=y]\}\)と仮定すれば,\(f(x)=a^{\prime}\)となる\(x \in A^c\)が存在することになる.これを\(x_2\)とおく.すると\(f(x_1) =a^{\prime},f(x_2)=a^{\prime}\)より\(f(x_1)=f(x_2)\).今,\(f\)は(全)単射であるから,\(x_1=x_2\)となるが,しかしこれは\(x_1 \in A, x_2 \in A^c\)であることに矛盾する.したがって\(a^{\prime} \in f(A^c)^c\).よって\(f(A)\subset f(A^c)^c\).

\(f(A^c)^c \subset f(A)\)であること:
\(a^{\prime} \in f(A^c)^c(=S^{\prime}-f(A^c))\)とする.このとき\(a^{\prime} \notin f(A)\)と仮定すると,\(a^{\prime} \notin f(A^c),a^{\prime} \notin f(A)\).ここで\(S = A \cup A^c\)であるから,\(f(S) = f(A \cup A^c) = f(A) \cup f(A^c)\)(∵P45(5.3)).また,\(f\)は全(単)射であるから\(f(S) = S^{\prime}\).よって\(S^{\prime} = f(A) \cup f(A^c)\).\(a^{\prime} \notin f(A^c),a^{\prime} \notin f(A)\)より\(a^{\prime} \notin S^{\prime}\)となるがこれは矛盾である.したがって\(a^{\prime} \in f(A)\).よって\(f(A^c)^c \subset f(A)\).

証明終

そういえば以前「数学は『イメージ』で理解しろ(させろ)」と主張に出会ったことがある。だけど,それって言い換えれば「イメージできない数学は理解できない(理解する術がない)」ということにならないだろうか?直観のきく世界から出ないのであればそれでもいいのかも知れないけど。そもそも,「絵」や「たとえ話」で理解したものは理解したと言えるのだろうか?

どんなノートをつかうべき?

僕は無地ノート一択だと思う。

ノートなら,

ルーズリーフなら,

こんなの。 理由は,

理由1.罫線が邪魔
罫線が思考を縛るから。罫線があると,対象(文字,図,数式)を書くとき必ず罫線の存在を意識することになる。「罫線に沿って書こう」「罫線に合わせて図にすこし上に/下にずらそう」「下に行を半行ほど少しずらしたいけど罫線と被って気持ち悪いから一行あけてしまおう」「矢印書きたいけど罫線と被って気持ち悪い,罫線と重なるように書こう」「円を書くとき罫線邪魔で気が散る」「分数はどう書く?一行に詰めるか?二行に分けるか?」「\(\displaystyle \int\)は?\(\displaystyle \sum\)は?これも一行に詰めるには狭いな,一行おきに書くか?」みたいな。これがウザい。なんで罫線ごときにいちいち自分の思考を指図・邪魔されなくちゃならんのか。こんなどーでもいいことに脳のメモリが(ほんの僅かだったとしても)消費されるのはほんとバカらしい。これらのウザさは無地ノートを使うことですべて解決。自分の思うがままに自由に書けるわけだから。

まあ,罫線のメリット?を強いて挙げるとすれば
① 文章がまっすぐきれいに書ける
② 円はともかく平行線(を用いた図)は綺麗にかける
という点かな?

でもこれらは僕はメリットとは全く思わない。むしろ,デメリットでもあると思う。なぜなら,

① 文章が少しぶれたからといって情報としての内容・質に変化はない。行の角度が1度や2度傾いたからといって1次方程式が2次方程式になることはないし,分かりづらくなることもない。各行同士が平行に並んでキレイ!と喜ぶのは自己満足に過ぎない。数学は書道の時間じゃない。
② これは言い換えれば罫線に頼らないと綺麗な絵を書けないということ。これが非常にまずい。

理由2.本番(入試,資格試験など)では罫線などない
大学入試問題,各種模試,数学検定,学校考査,いずれも解答用紙に罫線はありません(※統計検定の記述問題は罫線あり)。したがって,普段から罫線に頼らずとも見やすい絵を書ける訓練を普段からしておかなければならない。定規やコンパス,そして罫線に頼らず,サッとフリーハンドで見やすい直線がかける,フリーハンドできれいな円がかける,フリーハンドで見やすい平面図,立体図が描ける,これらも大事な数学の能力です。なぜその力を訓練する機会を奪うのか。教育的にもよくないと思う。そして白紙にそれなりの精度で自在に図がかけるようになると,理由1と同じくここでもやはり罫線の存在が邪魔になってくる。目障り極まりない。

学校数学ではこのデメリットだらけの罫線ノートがスタンダードになっているけど,なぜでしょうね。不便さに慣れ,もはや不便を不便と思わなくなってしまっているから?長年ガラケーを使ってるとそれに何ら不満を感じず,スマホの必要性を感じない,あの感覚かな?でも,一度スマホに慣れればガラケーの不便さとスマホの便利さに気付き,もう二度とガラケーには戻れないものですけどね。

罫線ノートを使って罫線にそって板書を綺麗に写す!というこの慣習,教科書は型として学ばなければならない!というアレとすごく似た雰囲気を感じるんだよなあ……まあこれは邪推かな。

「ドットが目印に」って…いやいやその「目印」なしで書くのが大事な訓練でしょうよ…

 

 

 

★P154_2

また明らかに
\begin{align*}
&M \in \mathfrak{O} \Longleftrightarrow M^{\circ}=M \tag{2.4}\\
&M \subset N \Longrightarrow M^{\circ} \subset N^{\circ}\tag{2.5}
\end{align*}

 
証明

\((2.4)\)
必要性.\(M\)を開集合とすると,\(M\)に含まれる開集合として\(M\)自身がある.したがって\(M\)に含まれる開集合全体の和集合\(M^{\circ}\)をとるとそれは\(M\),すなわち\(M^{\circ}=M\)となる.
十分性.\(M\)に含まれる開集合の和集合が\(M\)であるとする.開集合の定義により,開集合の和集合は開集合なので,\(M\)は開集合,すなわち\(M \in \mathfrak{O}\).

\((2.5)\)
\((M_{\lambda})_{\lambda\in\Lambda}\)を\(M\)に含まれる開集合全体から成る任意の集合族とする.\(M\subset N,~a \in M^{\circ}\)と仮定すると,\(a \in M_{\lambda}\)となる\(\lambda\)が存在する.\(M_{\lambda} \subset \displaystyle \bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda} = M^{\circ} \subset M \subset N\)であるから,\(M_{\lambda}\)は\(N\)に含まれる開集合でもある.したがって\(M_{\lambda} \subset N^{\circ}\).ゆえに\(a \in N^{\circ} \).よって\(M^{\circ}\subset N^{\circ}\).

証明終

★P154

定義から明らかに,\(M^{\circ}\)は次の3条件によって特徴付けられる.
\begin{align*}
&M^{\circ}\subset M\tag{2.1}\\
&M^{\circ}\in\mathfrak{O}\tag{2.2}\\
&O \subset M,O\in\mathfrak{O} \Rightarrow O \subset M^{\circ}\tag{2.3}
\end{align*}

 
証明

\((M_\lambda)_{\lambda\in \Lambda}\)を\(M\)に含まれる開集合から成る任意の集合族とすれば,示したいことは
\[M^{\circ}=\displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda}\Longleftrightarrow \begin{cases}M^{\circ}\subset M&(2.1)\\M^{\circ}\in\mathfrak{O}&(2.2)\\O\subset M,O\in\mathfrak{O} \Rightarrow O \subset M^{\circ}&(2.3)\end{cases}\]である.必要性はマジで明らかだから,十分性を示す.
\[M^{\circ}=\displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda}\Longleftrightarrow M^{\circ} \subset \displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda} \land \displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda} \subset M^{\circ}\]\(M^{\circ} \subset \displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda}\)であること:
\((2.1),~(2.2)\)により,\(M^{\circ}\)は\(M\)に含まれる開集合である.したがって\(M^{\circ}=M_{\lambda}\)となる\(\lambda\)が存在する.ゆえに\(M^{\circ} \subset \displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda}\)

\(\displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda} \subset M^{\circ}\)であること:
\(a\in\displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda}\)とすると,\(a\in M_{\lambda}\)となる\(\lambda \in \Lambda\)が存在する.\(M_{\lambda} \subset M,~M_{\lambda}\in \mathfrak{O}\)であるから,\((2.3)\)によって\(M_{\lambda} \subset M^{\circ}\).したがって\(a \in M^{\circ}\).ゆえに\(\displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda} \subset M^{\circ}\)

以上により\(M^{\circ}=\displaystyle\bigcup_{\lambda \in \Lambda}M_{\lambda}\)
証明終

学ぶということ

松坂和夫先生の『集合と位相』。去年の2月17日に読み始めた。記録をみると去年の12月23日に読み終えてる。基礎的な本ながら,一周するのに10カ月くらいかかってる。スランプで全然勉強していない期間が1ヶ月くらいあったので実質9カ月かな?

現在二周目を読んでいます。濃度までは割と簡単だから飛ばして,第3章順序集合から読み始めてます。現在第4章はじめあたり。

本はこの2週目以降がおいしい。1週目は何もかもが初めてで相手(本)の言っていることに振り回されるばかりで,吹っ飛ばされないように食らいついていくだけで一杯一杯になるけど,2週目,知識が部分的ではあれ整い,慣れてくると,それなりに余裕をもって読めるようになってくる。1週目で分からなかった箇所が分かるようになったり,苦しみながら理解した内容も割とあっさり理解できるようになったり。再発見と定着。知識が徐々に自分の「所有物」になっていく感覚。

この感覚を誰かに教わる/教えることは当然ながら不可能。難しい,のではなく,不可能。自分で自分の肉体を動かし,経験するしかない。これはかつては受験生時代にも感じたことではあるけれど,何かを学ぶということの本質は,誰かに教わることでは決してなく,自分自身で能動的に学ぶことだと改めて思う。